
夕食の時間、同僚が買った車の話をしていて、ふと「働き始めてから、時間が過ぎるのがすごく速くなった気がする」と言いました。
私「どうだろうね。今日、金曜の午後はずいぶん長かったけど」
今のところチーム最年少ということもあり、今でも学生気分でいます。認めたくはありませんが、大学を出てからもう3年以上が経っています。この3年は波乱もあり、同時に、ある意味では安定した日々でもありました。
ByteDanceには「ByteDanceの1年は、世間の3年」という言い回しがあります。その「9年」をここにまとめます。
右も左も分からなかった頃
インターンを除けば、杭州のByteDanceに入社したのは2021年6月末でした。
当時の様子はこちら:入社1週間の記録。
杭州のByteDanceは八方城のビルを2棟借りていました。ただし丸ごとではなく、どちらも主に上の5〜6階です。景色はなかなかよく、毎日ベランダから、余杭でいちばん都会らしいEFCや、さらに遠い余杭南部の山々を眺められました。雨が降り出す直前と、雨上がりの景色は格別でした。
所属したのは、抖音ライブ配信部門の消費者向けチームです。事前に2か月インターンをして、新人向けドキュメントの整備も手伝っていたので、人や業務にはある程度なじみがありました。ただ、インターン後に卒業手続きで大学へ戻って1か月空いたところ、再び出社したときには、なぜか割り当てられる仕事がなくなっていました。おかげで楽しく暇を持て余し、隔週土曜出勤の「大小週」制度が終わる最後の1か月は、休日出勤分の倍額手当もいただきました。
ある日、リーダーとメンターに、北京の業務を手伝ってみないかと声をかけられました。同じ上位マネージャー、いわゆる「+2」の配下にある法人向けプラットフォームで、急成長しているのに人手が足りず、あちこちから応援を集めていたそうです。うちのチームには1人分の割り当てが来ました。卒業したばかりでやる気だけはあり余り、ちょうど暇だった私は、二つ返事で引き受けました。
そのまま北京のチームと一緒に開発することになりました。上への報告用データを出すためのプラットフォームで、QPSは低く、消費者向けサービスとは重視するものがまるで違いました。性能より業務機能優先で、初期には整合性の要求すらさほど厳しくありません。呼び出しに失敗したらアラートを出して人が確認し、影響が小さければ直さないこともあります。ユーザーの操作頻度も低く、日常の保守は比較的のんびりしていました。
参加したのは、ちょうど大規模なバージョンアップの時期です。北京のエンジニア1人がリモートで面倒を見てくれ、最初は細かい改修をしながら、主に進め方を覚えていました。
要件の初期レビュー → 詳細レビュー → 開発が参加する技術レビュー → 開発 → QAが参加するshowcase → テスト → Launch Review → リリース
順序よく、1つ終えたら次の仕事へ。余計なことはありませんでした。最初は技術レビューで何を話せばいいかも分からず、わざわざ会議室を取ってかしこまって座っていたのですが、その後は……。
実際のところ、その後に大きく成長したわけではありません。慣れたというか、感覚が麻痺しただけで、徐々にいろいろなことを軽く考えるようになりました。本番前のバグなら大したことはないし、本番のバグだって、最悪データを直せばいい。
Goで業務コードを書くのはもともと自由度が高いうえ、開発の回転が速く、リファクタリングする時間もありません。動けば成功。リポジトリはどんどん混沌としていきました。妙に複雑な要件と、あちこちから借りてきた人による実装スタイルのばらつきで、プラットフォームは次第に「巨大な泥団子」になっていきます。
でも、私に何の関係があるのでしょう。小さな機能を書いているだけの初心者ですから。
入社したての頃は何もかも新鮮で、週末も自分から会社へ行って残業していました。どうせ1人で家にいてもすることがないし、いいじゃないかと。その後は自分のやることを見つけ、MYDBと関連するチュートリアルを完成させました。バグも多く、テストも十分ではありませんでしたが、とにかく夢中でした。20〜21時に退勤し、午前1〜2時までコードを書き、そこからシャワー、ゲーム、お酒まで済ませて、3〜4時に寝る生活です。
面白い人にもたくさん出会い、小さなチャットグループを作って、仕事の合間に雑談していました。当時のByteDanceは、私がIT企業に抱いていたイメージそのものでした。自由で、組織はフラット。休暇のために無理に理由をひねり出す必要もなく、仕事用PCには好きなものを入れられる。コロナ禍が続いていたので時々在宅勤務になり、打刻も勤務時間の強制もなく、11時過ぎに出社して夕食を食べたら帰る……。
がむしゃらに働く
そんなふうに楽しく働いて、2022年の初めになりました。その間に、周辺の細かな機能を担当するところから、1つの領域全体を見られるようになっていました。
Alibabaには、リストラされた人を慰めたり、自分を慰めたりするときによく使う言葉があります。「変化を受け入れよう」。
変わらないものは、変化だけ。
プラットフォームは急成長し、対象もライブ配信から抖音全体へ広がりました。一方、プロダクトの調整で、北京の開発チームが担当を手放すことになりました。引き継ぎ先は、ちょうど私の元のチームでした。
そこからは引き継ぎの日々です。新しく参加したチームの人たちと開発し、さまざまな共有会を開きました。当時、私は予算モジュールを担当していたので、初めて共有会を開きました。最初から最後まで感情なくドキュメントを読み上げただけですが、社内での初発表ではありました。試用期間終了時の発表は不要だったので。
北京のメンバーが徐々に抜けると、急に人手が足りなくなりました。予算モジュールに加え、プロジェクト管理の領域全体まで私に回ってきます。ちょうど大きな要件が出た時期で、その領域で最初に取り組んだ仕事が、ほぼ全体の書き直しでした。
納期は春節の連休に重なりました。急ぎだったため、旧暦の大晦日と元日を除き、ほぼ毎日図書館でコードを書いていました。認識の食い違いなど、要するに未熟だったせいで、全体を3〜4回実装し直し、ようやく連休明け最初のリリースに滑り込みました。
その後も積み残しの清算、リファクタリングのレビュー、新サービスへのコード移行と、息つく暇もありません。ちなみに2022年に始めたその移行は、今も終わっていません。
あの頃はひどく不安で、残業もかなりしていました。日々の問題に対応するだけで22時、23時になり、22時前に帰ることはほぼありません。その反動で夜更かしし、仕事に取られた時間を取り戻すように遊びの予定を詰め込みました。たとえば金曜の夜、会社の会議室で飲み始め、土曜の早朝まで飲んでから帰って寝る、とか😅。
不思議なことに、残業するたびチームリーダーもいました。22時、23時になると、私から帰ろうと声をかけるか、向こうから声をかけられるか。私は通勤を楽にするため会社と同じ敷地内に引っ越し、地下駐車場を歩いて通っていましたが、彼は片道50分〜1時間かけて通っていました。
家庭を持つというのは、そういうことなのかもしれません。
退勤が遅すぎて、個人開発も勉強もほぼ止まりました。帰宅すると、飲んで寝ることしか考えられません。お酒も、自作のカクテルからウォッカやウイスキーのストレートへ。飲む目的も、おいしさやほろ酔いを楽しむことから、眠るため、不安を消すためへと変わっていきました。
転機
生活が変わらないほうがいいと思うこともあります。見知らぬリスクより、慣れた平凡さのほうがましだから。
リスクはすぐにやってきました。
2022年半ば、チームの+2が交代し、空気が少しずつ変わりました。気軽だった会議は改まったものになり、開発プロセスも複雑になりました。単純な手順にいくつもの審査が追加され、あらゆる判断が何層ものチェックを通るようになります。
バグ数と人日の比、人員効率、コードの複雑度など、次々と指標が持ち込まれました。数字が高すぎたり低すぎたりすれば、次の週次会議や隔週会議でやり玉に挙げられます。プロダクト、開発、QAの関係もぎくしゃくし、会議での言い争い、駆け引き、責任の押し付け合いに疲れ果てました。コードに集中できる時間がぜいたくに思えるほどです。やればやるほど失敗する、何もしなければ間違えない。押し返せる仕事は押し返す。それが身を守る術になりました。「本番のバグだってデータを直せばいい」が、「回帰バグ1つで死刑宣告」に変わってしまったのです。
この頃から人員枠も縮小し、チームの人数が減り始めました。なじみのある人たちが、自ら、あるいは望まずに去っていきます。毎日一緒に食事をし、さぼり、帰っていた同僚に、週に1度しか会えなくなることも増え、仕事中の孤独感が強くなっていきました。

そんな中、ストレスが身体に出たのか、何年もの夜更かしと飲酒がたたったのか、その両方なのか、身体が悲鳴を上げ始めました。詳しくは慢性胃炎の治療記録に書いています。
1か月で6kgも体重が落ち、さすがに反省して、もう投げ出す健康第一モードに切り替えることにしました!
今は毎朝8時半に起きて会社で朝食を食べ、18時過ぎに夕食を済ませたらすぐ退勤。帰宅後に30分走り、0時前に寝る健康的な生活です。最後の項目は、まだ努力中ですが。
頑張れって? 命がなくなりそうなのに、どう頑張れと!
幸い、先の激変でプロダクト担当もかなり去り、開発要件は急減しました。上の人たちは「仕事で成果を出せないなら、部下を振り回そう」というモードに入り、また妙なチェックや規則を増やしています。今の+2はAlibabaの色が特に濃く、よく分からないチームビルディングや個人の出し物が大好きです。別の意味で苦痛ですが。とはいえ、プラットフォームは時々保守する程度の段階に入り、細々した仕事も減りました。
外の転職市場も厳しいので、しばらくはこのままやり過ごします。
あとがき
本来、この3周年の振り返りは5〜6月に書き終えるはずでした。でも、ちょうどプロダクトの激変と体調不良が重なり、タイトルだけがメモ帳に3か月眠っていました。最近ようやく体調が落ち着き、続きを書き始めたところです。その3か月で、意欲的だった気持ちが「しばらくはやり過ごそう」に変わったのだから、世の中は分からないものです。
それでも、ある程度の心の健康は保てました。最近は気分の記録とスケジュール管理を調べ、自律的な生活を目指しています。今のところの成果は、どこに時間を浪費しているかが目に見えるようになったことですが。いずれ記事にまとめたいと思います。
この数年、海外留学への思いもくすぶり続けています。うまくいかないことがあると、特に強くなります。忙しい1日を終えた深夜、その考えがつるのように心を覆ったことが何度もありました。この3年でいちばん退職に近づいたのは、病院で胃カメラを待ちながら、飛書のメッセージに返信してオンコール対応をしていたときです。「この給料のために、ここまでの代償を払う価値があるのか」とよく自問します。でも落ち着くと、ため息をついて、その考えを無理やり押し込めてしまいます。
さらに3年後、今の自分を後悔したり、恨んだりするのでしょうか。これが選択というものの呪いなのかもしれません。
どう選んでも、選ばなくても、その代償は引き受けなければならない。
